KQ4のブログ

地方で暮らす、30代男性の日々の色々なこと 教育→小売→福祉と転職

うつ状態からの抜け出し方

数年前、私は高校の教員をしていました。
東京で販売の仕事を2年やり、先行きの不透明さと職場の雰囲気の悪さから逃げるように採用試験を受け、合格。

その後、手続きを終えて赴任校に挨拶に行った際、東日本大震災が起こりました。
避難訓練ではなく、「避難」そのもの。
校庭に集まった生徒の前に立つ教員は若い年代ばかりが目立っていました。

それはなぜかというと、採用後5年間はいわゆる「進学校」か「問題校」のどちらかに行くのが通例だったのです。
私が赴任したのは後者でした。ベテランの教員はみな行きたがらなかったのでしょう。
20代の教員と、30代の講師が中心で、ベテランの教員もいるにはいましたが、定年間近だったり、事なかれ主義の教員が多かったのです。

とある漫画家の方がいましたが、人がストレスを感じるのって
「やらない方がいいと思うことをやらされる」ことと、
「やった方がいいと思うことをやらせてもらえないこと」
だそうです。
私は激務の日々で、その両方のストレスを感じていました。

「やらない方がいいと思うこと」
それは、生徒を力や大声で叱りつけること。赴任校ではその指導が主流でした。
私はどうしてもそれができませんでした。
同僚からも生徒からも軽く見られてしまっていたと思います。

「やった方がいいと思うこと」
それは、授業に力を入れること。
赴任校では単純問題を繰り返し解かせることが主流であり、工夫して色々な教材を用意するというのは求められていませんでした。
それでも授業研究をしていると同僚から「暇だね」と言われることもありました。

さらに、部活動の指導があり、休みは半年で1日しかありませんでした。
夏休みもありません。
毎日勤務です。
夜は8時に終わり、体育会系の教師から呑みに付き合わされることもしょっちゅうでした。
その他の教員からもからかわれることが多く、最終的には「いじめ」の構図が出来上がりました。
さすがに管理職に相談し、多少は改善されましたが、根本的な解決にはなりませんでした。

2学期に入ってほどなくして、私は学校に行けなくなりました。
身体が鉛のように動かず、布団の上で一日身体を横たえていることしかできなくなりました。
1週間後くらいに幸運にも心療内科の予約をとることができ、診断を受けました。
結果は「軽度のうつ病

今にして思うと、本当に「うつ病」だったのかはわかりません。
でも、あそこまで意欲が減退し、一日寝ていることしかできなくなったのは初めてでした。
自分の中では、「非定型うつ」だったのだと思っています。食欲もあることにはあったし、不眠ではなく、過眠の傾向がありました。
ただ、朝が辛いのは従来のうつ症状だったので、断定はできません。

そこからしばらくして、実家で療養することになりました。

医者からは「何も考えず、ひたすらクラゲのように布団に身をゆだねてください」と言われました。
「クラゲのように」という比喩がとても分かりやすく、しっくりきたのを覚えています。
そこから3か月くらいして少しずつ歩くことができるようになりました。

半年かけて壊れた身体は直るのにも半年かかりました。
復帰の話もありましたが、それは丁重にお断りしました。

もともと戻る気はありませんでしたが、直属の上司が亡くなったことも大きいです。
過労だったのでしょう。
私にとってはいい上司ではありませんでした。
教頭に相談した後は大人しくなりましたが、職場で苦しむ私を助けてはくれませんでしたから。

生徒の中には「復帰を待ってる」と声をかけてくれる子もいましたが、それがありがたいどころか、反対に辛くなっていることから、自分は教員をやるべきではないと思いました。

今でも、もっとやりようがあったかも、と思います。
同僚たちに恨みがないといえば嘘になります。
8社の職場経験の中でも、そこの人間関係は最悪でした。
黒い感情がふっと沸いてしまうこともあります。

それでも、退職して本当によかった、と心から思います。
教員をしている友達もいますし、仕事自体は重要でかけがえのないものだと思っています。労働環境ももっと良くなってほしいと思います。
対人関係においてのめりこみすぎてしまう自分の性質を知れたのもよかった。
今の福祉職もそうですが、相手のことを考えることよりも、相手のために何ができるかを考えた方がいい。
そして、何ができないのかも。
線引きをしっかりできることは何の仕事でも、どんな人生でも大切なことだと思います。

何の因果か、今の妻は教員をしています。
その大変さを多少なりともわかってあげられることは何よりのプラスかもしれません。