KQ4 DIARY

地方で暮らす、30代男性の日々の色々なこと 教育→小売→福祉と転職

忙しさにかまけて

note.com

 

こちらを読んで。
これは他人事ではないな、と思った。

淡々と積み重なるこれまでとこれからのことに、ただ胸に詰まるものがあった。

俺は人生にちゃんと向き合えるようになったのはここ最近だと思っている。
人生とは自分一人のことではない。自分と、そこに関わる全てのことだ。

それまではただ周囲に流され、忙しさにかまけてちゃんと考えようとしてこなかった。
考えていたのは自分のことばかりだ。自分のことで頭がいっぱいだった。

いつか来るであろう別れと、その時の処し方に備えつつも、その時の自分を支えるのは今ここにいる自分だ。

幸せになることから逃げてはいけない。幸せであろうとした結果起こる失敗や悲しみも引き受けて、なお幸せだと言えるようになりたい。

人は幸せになるために生きてきたのだから。

空白を埋める

頭のいい人ほど、陰謀論にハマりやすいという。

分からないものを分からないままにするというのは不安であり、不快である。

そのため、「物事の裏には〇○という存在がいる。全ての原因はそこにある」としてしまえば、分からないという空白はなくなる。

 

らしい。

頭のいい人は大変だ。人間が分からないことなんていくらでもあるのではないだろうか。

コロナ禍において、科学的リテラシーの大切さが表面化したが、本来科学というのは曖昧なものを曖昧なままに定義することもある。

 

ワクチンなども、「400万人のうち、10人に重大な副作用があることもあるし、ないこともある」など。つきつめていけば、過去にアレルギー反応があったり、アナフィラキシーショックを起こしたことがある、といった要因もある。

「〇○という条件下において、××は△△であるが、××が□□なこともある」といわれるより、「××は△△!」と言われた方が分かりやすいのだろう。

 

「自分は自分の知らないことがいっぱいあるのだな」という空白を認めないと、安易に空白を埋めてしまいたくなるのだろうな、とそんなことを思った。

自己虐待

 昨日、久々にブログ書いて思ったのは、文章書くの下手になったなぁ、ということ。
昔の読み返したら我ながら読みやすかったな、と思ったもの。先輩が失踪して、さらに一家崩壊の危機がすごく分かりやすかった。分かりやすすぎて自分が心配になった。

 

 タイトルの件。

twicomi.com

 

読んだ後、すごく腑に落ちた。メンタル崩した時、割とこんな感じだった。
ここまでひどくはないものの、一つ一つの動作が億劫。
で、「本当はこうするのが正しいはず」「やらなくちゃ」「自分はダメ」と決めつけて身動きがとれなくなった。

こういう思考は癖になるんだよな…。気をつけないと。

と同時に、作者自身のメンタルは結構不安定なようで、それがかえってリアルさと救われなさを感じた。
amazonレビューでここに出てくるカウンセリング受けた人のレビューとか見るとなおさら。

全ての人に全てが当てはまることはない、てわかるけどさぁ…。
エッセイとかドキュメンタリーとか読んで感動した後に、著者が実はマルチ講やってましたくらいのもやもやだよ。(実際ありそうで困る)

まぁでも、自己虐待って謙遜が美徳と考える日本の風土では割とありそうだよね…。
自分を誇ろう。そんな自分が誇るものを誇ろう。
いつも忘れがちな、大切なこと。

経験に学ぶ

 書こう書こうと思ってブログを書くのが今になってしまった。
前回のブログで100人くらいとあった県の感染者数はもはやケタが変わってしまった。
まだ半年しか経っていないのに信じられないが、よくここまでがんばったな、とまず自分を褒めたい。
 書きたいことは自己虐待とか書くこととか、正義とかについてとか維持の話とか色々あるけど、とりあえず標題に関して。

 「愚者は経験に学び、賢人は歴史に学ぶ」という言葉がある。しかしこれ、賢人というのはほとんどいないのではないか、と思う。賢人がこの言葉を自覚するにはやはり、経験を通してではないか。初めから賢人はいないのではないか。
 政権批判というのを普段しないのだけど、この年末年始やその後の対策に関して、どうにもちんぷんかんぷんなことばかりされている気がして仕方がない。非常に他人事感を覚える。というのも、危機感があればまず会食もしないし、笑顔で生放送もしないし、周回遅れの特措法や病床確保の話なんか出ないと思う。
 最初に言いたいのは、別に外国が羨ましいとかは思わない。なんだかんだ感染者数、死者数に関してはまだ日本は低いから。現時点では。あと、百点満点の対策はありえない。何を重視しても必ず被害者は出る。全員を救えない。でも、全員を救う姿勢は欲しい。俺個人はそもそもイタリアのニュースの時点でかなりの恐怖を感じていた。職業柄もあって、自粛も早い段階でしていた。ただ、波が収まってきた段階で会食も少人数でしたり、2人で呑みなんかもやっていた。
 それでも職場的には緩く、それ以外の人よりは厳しいと感じている。前回のすり合わせが難しいのはそんな状況で書いたものだ。
 

 で、経験に関して。物事の捉え方って、その人の経験に左右されると思う。当たり前だという人もいるかもしれないけど、このことを前提にしないと「それは間違っている」「あいつはおかしい」といった水かけ論になりがち。で、俺は不幸なことがあったとき、「なんで俺がこんな目に」て思う。車のスピード違反で取り締まりを受けた時とか、「普段はこんな目に遭わないのに」「他の車もやってるのに」て思わないだろうか。俺は思う。そもそもスピード違反したの自分なのに。

 で、一度でもスピード違反で取り締まられれば、とりあえずスピード違反で捕まった経験はできる。想定外ということにはならない。2回目があったとしても「運が悪かったな」とは思うかもしれない。その前に気をつけて違反しないのが一番だけど。
 これは俺が経験から学んだ例。でも、一度も経験をしていないと、そもそもスピード違反で捕まることさえ想定せず、法定速度違反をしてしまうかもしれない。

 例を間違えた気がして仕方がないけど、そもそもコロナ感染者が身近にいなければ行動は変わらない人もいるのではないだろうか。いても軽症・無症状だったり。
 で、件の政治家の人は「そもそも自分には無関係」と思っているのではないだろうか。そう考えると行動には納得できる。
 
 俺は素人だし、どちらかと言えば医療者よりの立場ではあるけど、利益に左右される仕事もしている。だからこそ思う。締めるときに一気に締めて欲しかった。締める・緩める基準をつけて欲しかった。感染対策を前提にした経済対策をしてほしかった。各国の惨状に学んでほしかった。経験ではなく、歴史(過去の知見・データ)に学んでほしかった。賢人であってほしかった。 

 しかし、これはしょせん他人に求めることであって、自分のことではない。
自分でどうにかできること以外を考えすぎるのは良くない。俺は自分より偉い人、知識を持った人に期待しすぎてしまうきらいがあるが、それは俺自身へのコンプレックスからきているものかもしれないし、巡り巡って他者を貶める考え方なんだと最近思っている。

 まとまらない。やっぱり言及し慣れてないことはするもんじゃないな。
 明日からも対策しっかりしてがんばろう。

コロナ禍における価値観の「すり合わせ」

 8月からこっち、どうにも胃腸の調子が悪い。
 それはおそらく、コロナの第二波が到来し、ある意味で第一波以上の混乱がもたらされたからではないだろうか。

 俺は福祉職である。職業的に、他の職業以上に慎重な行動が求められる。職場でもそのようなお達しがあり、基本的には不要不急の行動は自粛、行動は行動履歴表に記入することとなった。
 一方で、俺の住む県はそこまで感染者が多い状況でない。現在の県での感染者は増減を繰り返し、100人程度である。市中感染は今のところ起きていない。
 そんな状況もあり、個人的にはいわゆる「三密を避ける」「手洗い」「マスク着用」といった対応である程度は問題ないと考えている。もちろんゼロリスクはありえない。
基本は家族での行動であれば外出も問題ないし、県内の友人と2人で行動するならまぁ、という感じ。

 しかし、職場では一部の人は不要な移動は自粛している。職業倫理的には正しい。しかし、「〇○さん、ハイキング行ってきたらしいですよ…」とか、過敏と感じる向きもある。なまじっか田舎で感染者が多くないのでなおさらだろう。
 県外の友人からはバーベキューに誘われたりもする。友人は皆冷静に行動できる人物であるが、バーベキュー場に集まる人がそうとは限らないし、5人以上でバーベキューは感染例もある。
 そして、俺は60代(四捨五入すれば70代)の母親と暮らしている。友人は帰省は避けているとのことで、とすると県外に遊びに行って高齢の家族に移すリスクを俺だけがもっていることになる。
 母親自身はコロナはそこまでは過敏ではない。バーベキューに行ってもいいよ、と言っている。

 地域の感染状況、職場、家族、県内外の友人のコロナに対する価値観のすり合わせで非常に疲れていたようだ。自分ではあんまり感じていないのだけれど。

 もちろん、感染はしたくない。したくないのだが、こういった絶対の正解がない、という状況で価値観をすり合わせるのは大変である。

自粛疲れという言葉すら聞かなくなって

さすがに長く感じてきた…。
コロナウイルスの本格的な収束自体、2~3年かかると言われてきた。
だから、そういう覚悟はなんとなくできていたように思っていた。
しかし、実際のところはしんどいものである。

不要不急の…というが、不要不急がなくては人間らしい生活はできぬ…。

切羽詰まった方にとってはうんざりなのかもしれないが、第一波の収束時、せめて緊急事態宣言をもう少し遅らせられなかっただろうか。あるいは、県をまたいだ移動の解除を遅らせるなどできなかったのだろうか。一度に自粛を緩めるのではなく、最初は自治体ごとにするなど、小規模から始められなかったのだろうか。

結果を見れば、県をまたいだ移動から徐々に感染が広がり、結局はまた自粛への動きとなっている。
自治体ごとであれば普通に外食もできたし、ささやかながら外出もできたのである。

別に、県をまたぐこと自体禁止も自粛要請もされていないのだが、結局は感染すれば責められる。東京の方に関しては差別ともいえる対処をしなくてはならない状況となった。緊急事態宣言は東京の感染者がまだ2桁のころに解除された。あれだけシミュレーションされたのに今頃「3桁!」「〇百人!」と騒いでおり、政府も自治体も後処理に追われている。


純粋に意味が分からない…。


矛盾の中に身を置くのは非常に疲れるな、と思う今日このころです。
まだ、「がんばって自粛しよう!感染者を減らそう!」というメッセージがあった頃の方がストレスは少なかったなぁ。
今は本来「感染者が出ることを責めないで!医療体制を整えつつ、経済も回していこう!」というフェーズのはずなのだけど…。

一人身でいいやという身勝手さ。

 ここ数年はそれなりに婚活をしている。しかし、必死さが足りないのか、そもそもの心構えがおかしいのか、実を結ぶことは少ない。今思えばあの時に…という例もないわけではないが、自分の理想が高すぎるのかとも思う。
 ここ最近は、約ひと月連絡をとっていた相手と初めて会ってきた。いわゆる出会い系アプリがきっかけ。ラインの反応もよく、趣味も合うことから毎日やりとりをした。で、実際会うとお互い緊張はしていたものの、話も合うし、コロナを配慮しつつも楽しく過ごせたと思う。
 思うのだが、この人と結婚生活を送るとなると…と思ってしまう。(年齢的に結婚を前提とするのは当然であるので)もしかしたら相手もそうかもしれない。会話のペースが合わないためか、疲れてしまった。会話のスピードが速いのだ(テンポではない)。
最も、この方以上に合わず、しまいにはめまいがしてしまったこともあったので、それほど悪くないのかもしれない。
 そんな心の内を見透かされてしまったのか、ラインは返ってこない。ほっとしている気持ちと、この一か月の労力が徒労に終わったことのむなしさを感じる。ここで追いかければいいのかもしれないが、追いかけるほどの情熱がないことがまたむなしさを増加させる。
 我ながら、この上から目線の理想の高さが嫌になるし、このまま婚活が徒労になることも嫌になる。コロナの中、気を遣いつつ、距離感を図りながら一瞬で終わるのだものなぁ…。
 そんな中読んだゆるキャン△に触発されたので、6月はデイキャンプに行こうかと思っている。