KQ4のブログ

地方で暮らす、30代男性の日々の色々なこと 教育→小売→福祉と転職

嫌いなことを避けて幸福になるという選択と、結局は運という結論

分裂勘違い君劇場http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/


20代前半はまさにこの「好きを仕事に」という概念にとらわれていた。
就職活動中はこの「好き」が形を変え、さらに「好きを仕事に」という概念もぶれ、ブレにブレて「書くことが好きだから、編集もできる営業職」という仕事に無事墜落した。

その後、「とりあえずできそうな仕事」と「好きを仕事に」の間をさまよう内に7社を経験することになってしまった。
記事内でいえば「ギリギリ不一致」から「ギリギリ一致」を揺れ動いていたというか。
志向としては一致を目指したかったのだけれども。

「好きを仕事にできるかどうか」は結局のところやってみなくてはならない。
入念な準備や、没入が必要なのかもしれないけれど、それすら「好きを仕事にする」ことを選択した後でしか分からないのだ。

結果、自分はできなかった。一致タイプはやめ、ギリギリ一致するか不一致するポイントを探して仕事を選ぶことになった。
で、今までの経験から「嫌なこと」を除外できる仕事に的を絞った。

 

・仕事の拘束時間が長い

・競争的な雰囲気

・休日が少ない

・休日も仕事のことを考えなければならない

 

でまぁ、これら「嫌なこと」を全て除外できる仕事に就くことができた。

しかし、これって結論「運」が良かったとしか思えないのである。
入ってみなくては、いくら面接で上記を確認しても本当のところはわからない。

特に職場の雰囲気とか。

これまでの経験も役には立っているが、別になくても問題はない。
今までの経験があったからその仕事ができたのかもしれないが、本当にそうかもわからない。


さらに、仕事を続けていくうちに、諦めていた「好きを仕事に」が叶う可能性すらある。そう、「仕事を好きになる」というありふれた陳腐な表現をされたあの言葉をなぞるように。

 

反対にますます不一致になっていく可能性もある。
今はただ、「嫌いなこと」が少ないという、最大の幸福を味わっていたいものである。
それがまた、自分の幸せの志向を定義しているのかもしれない。

すなわち、「好きなことが多い」のが幸せか、「嫌いなことが少ない」のが幸せなのか…。

 

エントリを読んで、自分も思わず記事を書いてしまった。
好きなことがないなら、嫌いなこと、まるで興味のないことをピックアップし、そうじゃないところと、それなりにできそうなことや少しでも関心のあることをマッチアップすることができていれば、幻想にすがることもなかったのかもしれないなぁ、とぼんやり思う。

幸福を見つける手法

演繹と帰納という思考の方法がある。
高校生の時に数学の授業で習って以来、すっかり忘れていた言葉だ。

「今まで不幸だったから、自分は不幸であり、この先も不幸なのだ」という思考をする人がいる。

話を聞くと、人生全てが不幸というわけではない。
ただ、自分は不幸という思い込みから、過去の色々な不幸な出来事を語り、「だから自分は不幸だ」という結論づけをする。
不幸の自己ループ、永久機関である。

不幸な出来事があり、自身が不幸であるとし、不幸と結論づけるものだからその他の色々な出来事を不幸とみなす。

これは演繹か帰納

と考えて冒頭の言葉を思い出すに至る。

この場合は不幸の演繹法と呼べる。

この考えをどう覆せるのか、とんと見当がつかない。

幸せな出来事をたくさん経験し、幸福の帰納法でもって幸福と結論づけるしかないのだろうか。

お盆の入り口 三太の湯

12日
お盆の初日ということもあってか、ものすごく忙しかった。同僚によると、GW並みの忙しさだったらしく、つまりは年で一番忙しい日と同様の忙しさだったらしい。本当に勘弁してほしい。
とはいえ、残業は2時間であり、前職に比べれば全然マシであり、悲しき社畜時代によってなんともないのであった。クソァ!

13日
お盆休みである。まさかそんなものが自分に与えられる日がくるなんて。
公務員(公務員)だった教員時代でもそんなんなかったぞ。
というわけで本日は茨城北部へ。
袋田の滝自体は本気で何回行ったか分からないくらいのレベルだったが、帰りに寄った三太の湯は初めて。
ヌルヌr…スベスベになった肌をさすりながら、サウナで汗を流すと悩みも流されていくようだ。

前職はあんなに忙しかったのに、なんだか今考えると充実していたような気がしてくる。錯覚である。錯視である。
目下、目的のようなものがないから日々なんとなく疲れてるのかな、とかそんなことを思う。
楽したくて転職したからって、楽を追い求めすぎてもかえって疲れるのかもしれない。
なんて贅沢な悩みだろうか。一年前の自分が聞いたら倒れるかもしれない。
ここまで書いて、一年前の自分は倒れてたことを思い出した。予知か。

そして、また文章を全部消してしまった。どうやら、指がノートパソコンのカーソル動かす部分に触れてるのが原因みたい。今回は途中で文章コピーをしていて助かった。

どうでもいいけど、ハイアンドローの斎藤工のセリフ、「俺を壁だと思え」ってマジで斎藤工。工しか言えない。さすがセクシーを愛しセクシーに愛された男。

あと、ドラクエⅪのヨヒム、喋れないなら筆談で親父に原因教えとけよ!(ゲームに突っ込んだら負けだってばっちゃが)
そして、攻略サイトネタバレしすぎ…見なきゃいいんだけどさ…少しは配慮してよ…。
今後の展開二つも見ちゃってかなりやる気そがれたよ…

8月

www.youtube.com

アイデンティティ野沢雅子ネタが地味に面白いw

8月です。皆さんお元気ですか。よろしくお願いします。8月です。(SCPネタ)

最近は漫画とかゲームネタを職場の方から教えてもらうことが多いです。
今度は廃道探検いってみようと思うよ!一人で!
「あと10年若かったら一緒にいったんだけど…」と人妻に言われてドキドキしたよ!

潜ります。(廃道に)

 

 

銀魂

 怒涛のレストラン3連続勤務である。眠い。しかし、こうやって日記を書くゆとりがあるというのはありがたいことである。レストラン勤務そのものはいいのだけれど、正直やることがないことがしんどい。しかも、他の人は普通にやることがあり、忙しそうなので、神経がところてん並みの柔らかさである俺には耐えられそうもない。一体俺は何をしているのだろうかという気持ちになる。

 あと、職場の人間関係も決していいとはいいがたい。大体こういうのは上司というか、上の方針が定まらないことから来ている。どんな集団もそうで、まず方針があり、その上で方針が違う人間にもそれなりのケアをするべきではないだろうか。もう一度組織論とか人間関係の本でも読もうか。 

 関係ないけど映画「銀魂」みたい。ぎんたまで一発で変換できてびっくり。

絞れるほどの汗

昨日は宿直明けに卓球をしてきた。

宿直明けに卓球を本気でやってきた。33歳。4時間睡眠での本気のスポーツは命がけだ。体はガクガク、呼吸は乱れ、どことなしに焦点がぶれてきたように感じる。こんなに疲れたのは2年くらい前に本気で姪と甥と追いかけっこをした以来だ。その時は36歳くらいの兄も参加しており、おっさん二人が全力疾走の上路上に転がるという誰も得しない絵面だったわけだが、今回は職場でのことであり、万が一救急車を呼ぶ羽目になったりでもしたら多方面に迷惑がかかる上に恥ずかしすぎて震える状況だったわけだ。

 でもまぁ、非常にスッキリしたのでいい一日だった。今日は友人宅のホームパーティにお呼ばれしている。行ってきます。

身体が堅かった

スローライフを夢見て転職するも、なぜか飲食に異動するという面白事態に。
せっかく入会したジムにも行けず、雨にも負けず、でもメタボには負けてしまう昨今である。

仕方ないので近隣の市営ジムに行くが、これがなかなか施設は充実、お風呂も広く、ワンコインで利用できるといいことずくめ。そもそもトレーニングしか利用していない俺にとってスタジオもプールもいらなかったのだ。
今までジムに払っていた月謝は何だったのだろうか。お布施か。

 

でまぁ股を開いてストレッチするのだが、これが開かない。ゾルディック家の門なのかと思うくらい開かない。時計の針でいうと8時20分くらい?あれ?結構開いてる?
であれば7時25分くらいか。それくらいの角度であって、身体のさび付きを感じる。

 

このように些末なことを書いているのも、どうも最近頭が錆びてきているかのように思えてならず、職場で受けたエゴグラムももっとA【理知度】をあげよと言われているからだ。
エゴグラムといえば、その研修であった女の子が昔からの知り合いだったらしいのだが、俺が全く覚えておらず、にも関わらず「あ、覚えてます覚えてます」と意味不明な返しをしてしまったのが悔やまれてならない。
話を戻すと、理知度をあげるには言いたいことややりたいことを文章にしたり、物事の理由や調査、仮説を立てることが有効だそうだ。

そんなわけで、ここでは極力、思うことを綴っていきたいと思う。文体はできるだけ昔の、今よりかは幾分頭が回っていたころの調子で書いていければなぁと思っている。

そんな折、文章がなぜか全部消えてしまい、これは二度めの文章である。三度目はない。あってたまるか。